今年は(スギ)花粉症の症状が軽いと思っていたのですが、ヒノキの花粉にも反応するようになってしまったようで、帰宅してから物を考える気にならない日が続いています。
オフリード等に関する記事群を早く書き終えなきゃと思っているのですが、何から、どこまで書こうか考えがまとまらず、つい更新が途絶え気味。
今回も今朝の散歩時の写真でお茶を濁しちゃいますね。
最初に会ったのはマーブルちゃんでした。
実はこのところずっと私は朝の散歩をサボっていたので、この子の弾けるような甘え方もしばらくぶりでした。
去年に比べると春の訪れが半月は早かった今年。
それでも夜は少し冷えるので、ストーブはまだ使っています。が、夜が更けてから一度焚くだけで、薪の追加せずとも朝まで暖かく過ごせます。
久しぶりに朝の散歩をしたら、すっかり春になっていることを実感しました。
いつものメンバーとも会えました。# ディーン君、顔が写ってなくてゴメン。
散歩の途中では会えなかったのですが、ご近所さんちのお宅の前で、ボーボー(宝宝)君とも遊べました。たしか4ヶ月くらいなのですが、ちょっとご無沙汰している間に、あっという間に大きくなっています。
ご覧のとおり、ファルコと雰囲気が似ている子で、お友達からは"ファルのちっちゃい頃にソックリ!"と言われてもいるんですよ。
幼いラブのハチャハチャぶりに引き気味だったファルですが、LB君が通りかかったら弾けまくり。ボーボー君の方がタジタジになるくらい。
一年おきに見事な花をつけるコブシが近くのお山を彩っています。
ウチの庭で一番目立っているのは、ここ数日で満開になったミモザ。
ピンクのユキヤナギも花盛りです。# 左上に写っているのはウメです。
12月が異常に寒かったためか、冬から春にかけての花の様子はいつもとずいぶん異なっていました。
例年なら年の瀬には色のない庭を彩ってくれるクリスマスローズも、最近になってようやく大量の花を付けたんですよ。
去年の今頃はまだ雪が見られたのですが、今年はもう冬に逆戻りすることもなさそうですね。確実に時は流れ、季節は廻っているようです。
2013年04月05日
もうすっかり春
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| ワンズ日記
2013年04月09日
いろいろ残念な週末
先週末は、GRTAの第2回定例競技会に参加するため、外出を控えるよう促す天気予報を尻目に、家族みんなで八ヶ岳に遠征していました。
土曜日のお昼前、いつものように中央道の駒ヶ岳SAで休憩。
中央&南アルプスの雪は、かなり減ってしまっていました。
ドッグランで息抜きをして向かった先は、競技会場である富士見高原。ジャッジの練習に参加したのですが、小雨のフィールドはとても寒かったデス。
久しぶりにDOG'S GOODS EASYさんに立ち寄ってワンコグッズを物色。今回も他所では見かけないようなモノをいくつか購入してきましたヨ。
雨が本格的に降り出した夕方、この日のお宿に到着しました。
同じヒストリックカークラブに所属する縁で、今までにも何度もお世話になっている(ワン連れでは初めての)バーネットヒルさんです。
クルマだけじゃなく動物との暮らしに関しても大先輩に当たるオーナーさん、そしてそのパートナーたちにファルを引き合わせたいというのも、今回の遠征の目的の一つでした。
私自身は右に写っている五郎君とは以前にも会ったことがあるのですが、左の風子ちゃんは初めてです。
えくぼちゃん(えっちゃん)と、不思議な猫の元太君に会うのも楽しみにしていました。
集合写真をば。
本当に良い子達で、ファルコもすぐに溶け込んでましたよ。
ブログで拝見はしていたのですが、自分を犬だと思っているかのような元太君の独特のムードには感動しちゃいました。出会いのエピソード等にも!
しばし遊ばせていただいてから、夕食は八ヶ岳俱楽部へ。
柳生さん親子の庭作りにはずっと惹かれていた("風景を作る人"という本は私の庭関係の教科書の一つです)ので、いつかじっくり寄せていただこうと思いながら果たせずじまいだった場所。が、大雨の夜なので"本物の"雑木林の庭はオアズケです。
その代わり、ドッグセラピストでもあるというスタッフの方に、ファルはマッサージをしてもらってうっとりできたりしたんです。良かったね!
宿に戻って、オーナーさん(&パートナーたち)とラウンジでしばし歓談。
ファルはというと、異常にハジケまくり。エンドレスでボール遊びをせがんでいました。私は写真を撮り損ねちゃったんですが、burnet hillさんのこの記事でその様子を紹介くださっています。
翌朝も早かったし(雨の中だったし)、結局みんなと外で遊ぶことはできずじまいでした。また今度ゆっくりとお邪魔することにしたいものです。
さて、日曜日のGRT競技会です。
小雨が降っていたかと思うと晴れて暑くなったり、突風に煽られてタープが飛ばされたり、終わりの頃にはアラレが降って冷え込んだり... とめまぐるしく天気が変わる大荒れでしたが、競技は無事におこなうことができました。
え゛、ファルと私の成績ですか? ...聞かないでください。
前日に少し練習した時はなかなかイイ感じで回収をこなしていたファルですが、たくさんの人とワンズに"うほほ〜い!"状態。
ダミーが投げられる直前まで、他の参加者達をキョロキョロよそ見し続けています。マークの声には反応して、マーキングもダミーの探索もそれなりに意欲的におこなうくせに、帰ってくる途中で他の子達に興味が移ってしまいます。一度などは隣の競技に乱入して"競技妨害"。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。> 皆さん
前回よりも失格が一つ増えて、またもや ビリッケツみたいな成績に終わってしまいました。# ううっ、もっとしっかりと練習しなきゃ!!
お口直しに、ミドルクラス以上のペア達の写真を少し載せておきますね。
高レベルな方々って、佇まいも、ちょっとした動きもサマになっていてカッコイイんですよね!
ゆのんさんとバニラちゃんがスタート地点に歩いている最後の写真なども、"戦場に向かう戦士達"みたいな凛とした雰囲気が醸し出されていました。
うん、私たちペアもこんな絵になる状態を目指して頑張ろうね、ファル!
土曜日のお昼前、いつものように中央道の駒ヶ岳SAで休憩。
中央&南アルプスの雪は、かなり減ってしまっていました。
ドッグランで息抜きをして向かった先は、競技会場である富士見高原。ジャッジの練習に参加したのですが、小雨のフィールドはとても寒かったデス。
久しぶりにDOG'S GOODS EASYさんに立ち寄ってワンコグッズを物色。今回も他所では見かけないようなモノをいくつか購入してきましたヨ。
雨が本格的に降り出した夕方、この日のお宿に到着しました。
同じヒストリックカークラブに所属する縁で、今までにも何度もお世話になっている(ワン連れでは初めての)バーネットヒルさんです。
クルマだけじゃなく動物との暮らしに関しても大先輩に当たるオーナーさん、そしてそのパートナーたちにファルを引き合わせたいというのも、今回の遠征の目的の一つでした。
私自身は右に写っている五郎君とは以前にも会ったことがあるのですが、左の風子ちゃんは初めてです。
えくぼちゃん(えっちゃん)と、不思議な猫の元太君に会うのも楽しみにしていました。
集合写真をば。
本当に良い子達で、ファルコもすぐに溶け込んでましたよ。
ブログで拝見はしていたのですが、自分を犬だと思っているかのような元太君の独特のムードには感動しちゃいました。出会いのエピソード等にも!
しばし遊ばせていただいてから、夕食は八ヶ岳俱楽部へ。
柳生さん親子の庭作りにはずっと惹かれていた("風景を作る人"という本は私の庭関係の教科書の一つです)ので、いつかじっくり寄せていただこうと思いながら果たせずじまいだった場所。が、大雨の夜なので"本物の"雑木林の庭はオアズケです。
その代わり、ドッグセラピストでもあるというスタッフの方に、ファルはマッサージをしてもらってうっとりできたりしたんです。良かったね!
宿に戻って、オーナーさん(&パートナーたち)とラウンジでしばし歓談。
ファルはというと、異常にハジケまくり。エンドレスでボール遊びをせがんでいました。私は写真を撮り損ねちゃったんですが、burnet hillさんのこの記事でその様子を紹介くださっています。
翌朝も早かったし(雨の中だったし)、結局みんなと外で遊ぶことはできずじまいでした。また今度ゆっくりとお邪魔することにしたいものです。
さて、日曜日のGRT競技会です。
小雨が降っていたかと思うと晴れて暑くなったり、突風に煽られてタープが飛ばされたり、終わりの頃にはアラレが降って冷え込んだり... とめまぐるしく天気が変わる大荒れでしたが、競技は無事におこなうことができました。
え゛、ファルと私の成績ですか? ...聞かないでください。
前日に少し練習した時はなかなかイイ感じで回収をこなしていたファルですが、たくさんの人とワンズに"うほほ〜い!"状態。
ダミーが投げられる直前まで、他の参加者達をキョロキョロよそ見し続けています。マークの声には反応して、マーキングもダミーの探索もそれなりに意欲的におこなうくせに、帰ってくる途中で他の子達に興味が移ってしまいます。一度などは隣の競技に乱入して"競技妨害"。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。> 皆さん
前回よりも失格が一つ増えて、またもや ビリッケツみたいな成績に終わってしまいました。# ううっ、もっとしっかりと練習しなきゃ!!
お口直しに、ミドルクラス以上のペア達の写真を少し載せておきますね。
高レベルな方々って、佇まいも、ちょっとした動きもサマになっていてカッコイイんですよね!
ゆのんさんとバニラちゃんがスタート地点に歩いている最後の写真なども、"戦場に向かう戦士達"みたいな凛とした雰囲気が醸し出されていました。
うん、私たちペアもこんな絵になる状態を目指して頑張ろうね、ファル!
posted by Tosh at 23:59| Comment(2)
| ワンズ日記
2013年04月12日
みだれなかった桜
一週間ほど前に もうすっかり春だと書いたばかりなのですが、昨日からは冬が戻ってきたかのような寒さです。
昨夜 7時頃に帰宅すると外気温は 5℃台。久しぶりにまずストーブを焚いてから、フリースを羽織って散歩に出かけました。
昨朝は私も久しぶりに散歩に出かけたのですが、時おり雪がちらついて、手袋無しの指がかじかむくらいでした。
そんな中で会った元気一杯のボーボー君。ファルもハジケてましたよ。
さて、ファルコ地方でもサクラの盛期を迎えました。
例年ならこの時期に花冷えがあると、花が長く楽しめると喜ぶところなのですが... 今年はちょっと様子が変です。
ウチの近所では、見事に満開と言えるソメイヨシノがとても少ないのです。三分咲きくらいで止まっているようにも見えるのですが、実はもう蕾はなくて葉が開きかけています。
しだれ桜はいつもどおりに満開になっている樹が多いし、標高で100mくらい下った辺りは普段どおりに咲き誇っているサクラが多いのですが。
今週(火曜日)のウチの庭。ソメイヨシノはほとんど花を付けていません。
真ん中のモクレンはたくさん咲いてくれたのに、左奥にあるサクラは、ところどころにピンク色が見られるだけ。一分咲きにも満たない花の量です。
ウチには三本のソメイヨシノがありますが、全て同じような状態です。
左側のギンヨウアカシア(ミモザ)の花が盛りを過ぎ、右手前のカツラや右奥のヤナギが生命力に溢れて若葉を拡げているというのに、真ん中に白い点がちょっとだけ写っているのがサクラなんです...
麓の街から美しいサクラの開花が上がってきたのに、ウチの少し手前で止まってしまったかのような感じ。この地に住むようになってから、こんなに花が少なかったことはありません。
ひと月ほど前、サクラの花芽を二羽のウソ(姿も鳴声もかわいらしい鳥です)がついばんでいるのを目撃しました。が、そんなに大挙してやって来ていたようには思えないので、おそらくは、12月の異常な寒さがサクラの花の成長を阻害したというのが合理的な解釈なのでしょうね。
2年前の今日、私はナットの存在を知りました。そして、1年前の今日はナットがリンパ腫である可能性が高いと診断された日です。
ナットがやってきた日はサクラがちょうど満開になった頃でした。がんの確定診断がくだされたのも同じように花の盛りを迎えた時です。
他のどの季節より、ナットは満開のサクラと結びつけて感じてしまいます。
去年、こんな記事を書いてしまったから、そして、その願いは叶わなかったから、今年は咲き乱れるサクラの季節を迎えた時にどんな気持ちになるだろうと、ずっと密かに怖れてきました。
満開のサクラ、そして花吹雪やピンクの絨毯を見た後で、どんな記事が書けるというのだろうという懸念は肩すかしにあった格好です。
一ヶ月くらい前にテレビで見て心を動かされた楽曲があります。その曲名を借りて、"みだれ桜"という記事タイトルが頭の片隅にあったのですが、ウチの周りはその歌詞に合うような状態にはなりませんでした。
ひょっとしたら、その曲の少し暗いトーンをナットは好まなかったのかもしれません。一緒に歌った(?)この曲の方が良いと私に伝えたかったのかな?という気がして仕方がないのです。
とーちゃんはもう大丈夫だから、そんなに気を回さなくていいよ。ナット。
ウチの近所にもサクラを楽しみにしている人は大勢いるんだから、来年からは普通に咲き乱れる花を見せてね!
でも、やっぱりこれだけは伝えておきたい。
"愛は流されはしない"と。
昨夜 7時頃に帰宅すると外気温は 5℃台。久しぶりにまずストーブを焚いてから、フリースを羽織って散歩に出かけました。
昨朝は私も久しぶりに散歩に出かけたのですが、時おり雪がちらついて、手袋無しの指がかじかむくらいでした。
そんな中で会った元気一杯のボーボー君。ファルもハジケてましたよ。
さて、ファルコ地方でもサクラの盛期を迎えました。
例年ならこの時期に花冷えがあると、花が長く楽しめると喜ぶところなのですが... 今年はちょっと様子が変です。
ウチの近所では、見事に満開と言えるソメイヨシノがとても少ないのです。三分咲きくらいで止まっているようにも見えるのですが、実はもう蕾はなくて葉が開きかけています。
しだれ桜はいつもどおりに満開になっている樹が多いし、標高で100mくらい下った辺りは普段どおりに咲き誇っているサクラが多いのですが。
今週(火曜日)のウチの庭。ソメイヨシノはほとんど花を付けていません。
真ん中のモクレンはたくさん咲いてくれたのに、左奥にあるサクラは、ところどころにピンク色が見られるだけ。一分咲きにも満たない花の量です。
ウチには三本のソメイヨシノがありますが、全て同じような状態です。
左側のギンヨウアカシア(ミモザ)の花が盛りを過ぎ、右手前のカツラや右奥のヤナギが生命力に溢れて若葉を拡げているというのに、真ん中に白い点がちょっとだけ写っているのがサクラなんです...
麓の街から美しいサクラの開花が上がってきたのに、ウチの少し手前で止まってしまったかのような感じ。この地に住むようになってから、こんなに花が少なかったことはありません。
ひと月ほど前、サクラの花芽を二羽のウソ(姿も鳴声もかわいらしい鳥です)がついばんでいるのを目撃しました。が、そんなに大挙してやって来ていたようには思えないので、おそらくは、12月の異常な寒さがサクラの花の成長を阻害したというのが合理的な解釈なのでしょうね。
2年前の今日、私はナットの存在を知りました。そして、1年前の今日はナットがリンパ腫である可能性が高いと診断された日です。
ナットがやってきた日はサクラがちょうど満開になった頃でした。がんの確定診断がくだされたのも同じように花の盛りを迎えた時です。
他のどの季節より、ナットは満開のサクラと結びつけて感じてしまいます。
去年、こんな記事を書いてしまったから、そして、その願いは叶わなかったから、今年は咲き乱れるサクラの季節を迎えた時にどんな気持ちになるだろうと、ずっと密かに怖れてきました。
満開のサクラ、そして花吹雪やピンクの絨毯を見た後で、どんな記事が書けるというのだろうという懸念は肩すかしにあった格好です。
一ヶ月くらい前にテレビで見て心を動かされた楽曲があります。その曲名を借りて、"みだれ桜"という記事タイトルが頭の片隅にあったのですが、ウチの周りはその歌詞に合うような状態にはなりませんでした。
ひょっとしたら、その曲の少し暗いトーンをナットは好まなかったのかもしれません。一緒に歌った(?)この曲の方が良いと私に伝えたかったのかな?という気がして仕方がないのです。
とーちゃんはもう大丈夫だから、そんなに気を回さなくていいよ。ナット。
ウチの近所にもサクラを楽しみにしている人は大勢いるんだから、来年からは普通に咲き乱れる花を見せてね!
でも、やっぱりこれだけは伝えておきたい。
"愛は流されはしない"と。
posted by Tosh at 18:24| Comment(2)
| ワンズ日記
2013年04月16日
共生を目指すために
"ナットの宿題"の記事を書いた約一週間後に、災害時のペットの同行避難に関する新しい動きがありました。新聞報道はこんな形ですが、具体的にはこのページ(審議会)の資料6のことを指しています。
議事録はまだ公開されていないのでどのような議論がなされたか現時点ではわからないのですが、国が "災害発生時は、原則として飼い主とペットは同行避難を行う"とガイドラインで明記することは大きな前進と言えるでしょう。
が、この発表に関しては、自治体の反応をネガティブに報じているものもありますね。
PDFファイルを見ればわかるとおり、まだ概要が発表されただけの状態のようですので、"災害に備えた平常時の対策"が実効力を持ち得るかは不明です。"飼い主による備え"についても "ペット用の避難用品を準備"と "必要なしつけを行う"ということが書かれているだけですので。
気になるのは "同行避難の推進"の部分に、"日頃から飼い主に対して同行避難やペットの災害対策の必要性について普及啓発を行う"と書かれている点です。
先の記事でも触れましたが、同行避難をおこなった際に問題となるのは"動物が苦手な人"の感情だと私は考えています。飼い主側のしつけ等は当然だとしても、それに加えて"動物の苦手な人"を減らす対策を打ち出さない限り、トラブルを低減することは困難だと思うのです。
"犬に関する法令等"以降の雑記帳カテゴリの記事群で少し触れてもきましたが、既にあるガイドラインの中にも、私が求める方向性は打ち出されています。
"法律"(動物の愛護及び管理に関する法律)の第一条(目的)と第二条(基本原則)をより具体的に肉付けして提示されたガイドラインである"基本指針"の冒頭の部分を引用してみます。
第1 動物の愛護及び管理の基本的考え方
(動物の愛護)
動物の愛護の基本は、人においてその命が大切なように、動物の命についてもその尊厳を守るということにある。動物の愛護とは、動物をみだりに殺し、傷つけ又は苦しめることのないよう取り扱うことや、その習性を考慮して適正に取り扱うようにすることのみにとどまるものではない。人と動物とは生命的に連続した存在であるとする科学的な知見や生きとし生けるものを大切にする心を踏まえ、動物の命に対して感謝及び畏敬の念を抱くとともに、この気持ちを命あるものである動物の取扱いに反映させることが欠かせないものである。
人は、他の生物を利用し、その命を犠牲にしなければ生きていけない存在である。このため、動物の利用又は殺処分を疎んずるのではなく、自然の摂理や社会の条理として直視し、厳粛に受け止めることが現実には必要である。しかし、人を動物に対する圧倒的な優位者としてとらえて、動物の命を軽視したり、 動物をみだりに利用したりすることは誤りである。命あるものである動物に対してやさしい眼差しを向けることができるような態度なくして、社会における生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養を図ることは困難である。
この箇所を初めて読んだ時、私は涙が出そうになりました。日本の動物愛護の精神も決して捨てた物ではなさそうだと感じたからです。
が、全体を読んでみると、"愛護"よりも"管理"の方に重点がおかれている印象が拭い去れないのも事実です。
"普及啓発"に関する部分では、"特に子どもが心豊かに育つ上で、近年、動物との触れ合いや家庭動物等の適正な飼養の経験が重要であることが指摘されてきている"といった積極的な記述もあるのですが、"災害時対策"は通り一遍のことしか書かれていないように思えます。
もっとも、上述の中央環境審議会動物愛護部会では今まさに 5年毎の見直しがなされている最中のようですので、新しい版に期待したいところです。
私がいくつかの都道府県の"推進計画"を読んだ限りでは、国のこの"基本指針"の焼き直しレベルの(むしろ劣化していると感じる)ものが多かったのですが、幸いなことに兵庫県の"推進計画"はもう一歩踏み出してくれています。
"推進計画"の意義(目的)は、序文でこのように書かれています。
はじめに
~ 人と動物が調和し、共生する社会づくりを目指して ~
都市化の進展や核家族化、社会の少子高齢化への流れを背景として、心の癒しや教育の観点からペット動物の飼養志向が広がってきており、人の生活におけるペット動物の重要性が高まっています。その一方で、動物の虐待、遺棄、飼養の途中放棄などが後をたたず、動物を「命あるもの」としてではなく、玩具のような「物」としか理解されていないような状況があります。このような生命尊重意識の低迷は、単に動物虐待に止まらず、児童虐待、凶悪犯罪などの兆候になっているとも言われており、動物愛護思想の高揚は、人を含めた動物に対する生命尊重意識の高揚として県が取り組むべき重要課題となっています。
また、動物飼養に関連した問題も多く、特に不適切な餌付けや多頭飼育等に起因する犬やねこによる人への侵害、迷惑が発生し、行政として適切な対策を求められており、大きな県民ニーズとなっています。これらの問題は、動物に対する嫌悪感を増長させるものであり、人と動物の係わりから見た場合、人と動物の共生を阻害する要因ともなっていることから、動物の飼い主に対する指導等の対策強化が必要となっています。
反面、平成15年に内閣府が行った「動物愛護に関する世論調査」によると、全国の3分の1の家庭で何らかのペット動物が飼養されており、単に愛玩動物としてではなく家族の一員として飼養されるようになってきています。さらに、盲導犬や介助犬、聴導犬などのように身体障害者の自立や社会参加への補助、発達遅延や障害者の機能回復に動物を介在した治療が行われているなど、動物が人間社会に及ぼす役割が増大しています。このような状況は、人と動物の係わりから見た場合、人と動物の共生を推進する要因でもあり、動物が地域社会に受け入れられるためにも、飼養動物に係わる人の知識に基づいた責任ある判断が求められます。その上で、動物の人間社会への積極的な参加が必要となっています。
「人と動物が調和し、共生する社会づくり」を目指すにあたって、阻害要因と推進要因を分析して、"動物の人間社会への積極的な参加が必要"だと書かれているものは、私がチェックした限りでは兵庫県のものしかありません。
"放し飼いは違法?"の記事で、兵庫県の"条例"では、県民の責務に "自ら進んで"という言葉を盛り込んであることを紹介しましたが、"推進計画"の方では更に突っ込んだ"役割"が明記してあります。
一般県民の役割
県民自らが進んで動物愛護思想の高揚と動物の適正飼養に努めるとともに、県が実施する施策に協力する必要があります。また、動物の習性、生理、生態を理解することによって、自然な動物の行動を許容し、社会に受け入れるように努める必要があります。
"動物嫌いの人"から反発が出ないかと心配になるようなことまで書かれていることに、私は大いに勇気づけられます。
"動物は社会を構成する重要なメンバである"という思いの一端を、行政が認め、推進しようとしてくれているわけですから。
"基本指針"や兵庫県の"推進計画"を読む限り、"ドッグランに犬を隔離する"ようなことは、「人と動物が調和し、共生する社会づくり」に逆行するものだと感じざるをえません。
少なくとも兵庫県は、動物の社会進出を後押しするガイドラインを提示してくれているわけですから、私たち犬の飼い主は、もっと積極的に犬を社会に受け入れてもらう努力を自らがすべきなんだろうと思います。
"犬嫌いの人"に気を遣って萎縮し肩身の狭い境遇を受け入れるのではなく、多少の軋轢は覚悟した上で"犬嫌いの人"を減らす活動をしたいものです。
私の知人の中には、ドクタードッグ等の動物介在活動、小学校に出向いて動物介在教育をなさっている方がたくさんいらっしゃいます。
実のところ、エラそうな記事を書いてはいても、私はそういった活動を今までしてきませんでした。
が、そろそろ何か自分にできることを見つけるべきだと感じているのです。
議事録はまだ公開されていないのでどのような議論がなされたか現時点ではわからないのですが、国が "災害発生時は、原則として飼い主とペットは同行避難を行う"とガイドラインで明記することは大きな前進と言えるでしょう。
が、この発表に関しては、自治体の反応をネガティブに報じているものもありますね。
PDFファイルを見ればわかるとおり、まだ概要が発表されただけの状態のようですので、"災害に備えた平常時の対策"が実効力を持ち得るかは不明です。"飼い主による備え"についても "ペット用の避難用品を準備"と "必要なしつけを行う"ということが書かれているだけですので。
気になるのは "同行避難の推進"の部分に、"日頃から飼い主に対して同行避難やペットの災害対策の必要性について普及啓発を行う"と書かれている点です。
先の記事でも触れましたが、同行避難をおこなった際に問題となるのは"動物が苦手な人"の感情だと私は考えています。飼い主側のしつけ等は当然だとしても、それに加えて"動物の苦手な人"を減らす対策を打ち出さない限り、トラブルを低減することは困難だと思うのです。
"犬に関する法令等"以降の雑記帳カテゴリの記事群で少し触れてもきましたが、既にあるガイドラインの中にも、私が求める方向性は打ち出されています。
"法律"(動物の愛護及び管理に関する法律)の第一条(目的)と第二条(基本原則)をより具体的に肉付けして提示されたガイドラインである"基本指針"の冒頭の部分を引用してみます。
第1 動物の愛護及び管理の基本的考え方
(動物の愛護)
動物の愛護の基本は、人においてその命が大切なように、動物の命についてもその尊厳を守るということにある。動物の愛護とは、動物をみだりに殺し、傷つけ又は苦しめることのないよう取り扱うことや、その習性を考慮して適正に取り扱うようにすることのみにとどまるものではない。人と動物とは生命的に連続した存在であるとする科学的な知見や生きとし生けるものを大切にする心を踏まえ、動物の命に対して感謝及び畏敬の念を抱くとともに、この気持ちを命あるものである動物の取扱いに反映させることが欠かせないものである。
人は、他の生物を利用し、その命を犠牲にしなければ生きていけない存在である。このため、動物の利用又は殺処分を疎んずるのではなく、自然の摂理や社会の条理として直視し、厳粛に受け止めることが現実には必要である。しかし、人を動物に対する圧倒的な優位者としてとらえて、動物の命を軽視したり、 動物をみだりに利用したりすることは誤りである。命あるものである動物に対してやさしい眼差しを向けることができるような態度なくして、社会における生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養を図ることは困難である。
この箇所を初めて読んだ時、私は涙が出そうになりました。日本の動物愛護の精神も決して捨てた物ではなさそうだと感じたからです。
が、全体を読んでみると、"愛護"よりも"管理"の方に重点がおかれている印象が拭い去れないのも事実です。
"普及啓発"に関する部分では、"特に子どもが心豊かに育つ上で、近年、動物との触れ合いや家庭動物等の適正な飼養の経験が重要であることが指摘されてきている"といった積極的な記述もあるのですが、"災害時対策"は通り一遍のことしか書かれていないように思えます。
もっとも、上述の中央環境審議会動物愛護部会では今まさに 5年毎の見直しがなされている最中のようですので、新しい版に期待したいところです。
私がいくつかの都道府県の"推進計画"を読んだ限りでは、国のこの"基本指針"の焼き直しレベルの(むしろ劣化していると感じる)ものが多かったのですが、幸いなことに兵庫県の"推進計画"はもう一歩踏み出してくれています。
"推進計画"の意義(目的)は、序文でこのように書かれています。
はじめに
~ 人と動物が調和し、共生する社会づくりを目指して ~
都市化の進展や核家族化、社会の少子高齢化への流れを背景として、心の癒しや教育の観点からペット動物の飼養志向が広がってきており、人の生活におけるペット動物の重要性が高まっています。その一方で、動物の虐待、遺棄、飼養の途中放棄などが後をたたず、動物を「命あるもの」としてではなく、玩具のような「物」としか理解されていないような状況があります。このような生命尊重意識の低迷は、単に動物虐待に止まらず、児童虐待、凶悪犯罪などの兆候になっているとも言われており、動物愛護思想の高揚は、人を含めた動物に対する生命尊重意識の高揚として県が取り組むべき重要課題となっています。
また、動物飼養に関連した問題も多く、特に不適切な餌付けや多頭飼育等に起因する犬やねこによる人への侵害、迷惑が発生し、行政として適切な対策を求められており、大きな県民ニーズとなっています。これらの問題は、動物に対する嫌悪感を増長させるものであり、人と動物の係わりから見た場合、人と動物の共生を阻害する要因ともなっていることから、動物の飼い主に対する指導等の対策強化が必要となっています。
反面、平成15年に内閣府が行った「動物愛護に関する世論調査」によると、全国の3分の1の家庭で何らかのペット動物が飼養されており、単に愛玩動物としてではなく家族の一員として飼養されるようになってきています。さらに、盲導犬や介助犬、聴導犬などのように身体障害者の自立や社会参加への補助、発達遅延や障害者の機能回復に動物を介在した治療が行われているなど、動物が人間社会に及ぼす役割が増大しています。このような状況は、人と動物の係わりから見た場合、人と動物の共生を推進する要因でもあり、動物が地域社会に受け入れられるためにも、飼養動物に係わる人の知識に基づいた責任ある判断が求められます。その上で、動物の人間社会への積極的な参加が必要となっています。
「人と動物が調和し、共生する社会づくり」を目指すにあたって、阻害要因と推進要因を分析して、"動物の人間社会への積極的な参加が必要"だと書かれているものは、私がチェックした限りでは兵庫県のものしかありません。
"放し飼いは違法?"の記事で、兵庫県の"条例"では、県民の責務に "自ら進んで"という言葉を盛り込んであることを紹介しましたが、"推進計画"の方では更に突っ込んだ"役割"が明記してあります。
一般県民の役割
県民自らが進んで動物愛護思想の高揚と動物の適正飼養に努めるとともに、県が実施する施策に協力する必要があります。また、動物の習性、生理、生態を理解することによって、自然な動物の行動を許容し、社会に受け入れるように努める必要があります。
"動物嫌いの人"から反発が出ないかと心配になるようなことまで書かれていることに、私は大いに勇気づけられます。
"動物は社会を構成する重要なメンバである"という思いの一端を、行政が認め、推進しようとしてくれているわけですから。
"基本指針"や兵庫県の"推進計画"を読む限り、"ドッグランに犬を隔離する"ようなことは、「人と動物が調和し、共生する社会づくり」に逆行するものだと感じざるをえません。
少なくとも兵庫県は、動物の社会進出を後押しするガイドラインを提示してくれているわけですから、私たち犬の飼い主は、もっと積極的に犬を社会に受け入れてもらう努力を自らがすべきなんだろうと思います。
"犬嫌いの人"に気を遣って萎縮し肩身の狭い境遇を受け入れるのではなく、多少の軋轢は覚悟した上で"犬嫌いの人"を減らす活動をしたいものです。
私の知人の中には、ドクタードッグ等の動物介在活動、小学校に出向いて動物介在教育をなさっている方がたくさんいらっしゃいます。
実のところ、エラそうな記事を書いてはいても、私はそういった活動を今までしてきませんでした。
が、そろそろ何か自分にできることを見つけるべきだと感じているのです。
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| 雑記帳
2013年04月24日
マールのドア
"ベルリンとの違い"から書き始めたオフリードの話題。最初に思っていたよりもルール(法令等)関連にエネルギーを割き過ぎて途中で息切れしちゃいましたが、本来書き記したかったことをあともうちょっとだけ述べておきたいと思います。
今の日本においては、嫌犬家や、中途半端に犬をかわいがる飼い主の主張によって、"ノーリードは悪"というイメージが浸透しつつあります。
一時流行っていた"オフリード写真掲載のブログ狩り"は少し息を潜めたのかもしれませんが、最近は"リードは命綱"という標語のもとに、"ノーリードは飼い主失格"のレッテルを貼るのがトレンドのようです。そして、法的には(控えめに表現しても)グレーなドッグランでなら自由にすれば良いという風潮...
多少意識の高い愛犬家の方々は、問題点が、社会化不足や、飼い主の責任意識の欠如によるものだと気付いてはいても、飼い主のモラルが全体的に改善するまでは現状に甘んじるしかないと諦めておられるように見受けられます。
が、そんな悠長なことを言っているうちに、(何らかの抜本的な解決策を見いださなければ)犬を取り巻く社会環境が致命的に悪化してしまうんじゃないかと強い危機感を感じているのです。
今までの記事からお察しいただけるように、私はオフリードに対して肯定的な考えを持っています。もちろん、一定のマナーと安全が担保される場合についてはという条件付きではありますが。
単刀直入に書いてしまうと、私は"適切なオフリードは健全な犬を育てる"と考えているのです。
私がこう思うようになったのは、実家にチヨとリュウが居た頃でした。チヨは人の気持ちに敏感で言うこともよく聞いたので、両親が塀に囲まれた広い庭で自由に放し飼いにしていることが多かった犬。一方、リュウは多少問題行動も起こした(父を咬んだこともあります)ので、鎖に繋がれている時間が長かった子です。
当時の田舎は、今のように"ノーリード禁止"の風潮はありませんでしたから、車や人が来ない里山や冬の田んぼの中ではオフリードで散歩するのが当たり前でした。
リードのオン/オフの違いを明瞭に見せたのはリュウの方です。リードに繋いでいる際には、必ずチヨよりも先を歩きたがりグイグイ引っ張るので、20年近く前にもハーネスを試してみたくらいです(後ずさりで抜くのですぐに止めましたが)。
ところが、オフリードにすると、視界の広がる田んぼの中でも私達人間から20mほどしか離れられないのです。しょっちゅうこちらを気にして、人間の前後を行ったり来たりするだけ。山道などでは 5mくらいしか距離を空けないで近くをウロウロ。そのくせ、リードを繋がれるのは嫌で(近くを)逃げ回るという臆病な(自信のない)犬に育ってしまっていました。
チヨの方は林の中などではかなりの距離の冒険に出るのですが、呼べば戻ってくるので安心してオフリードにすることができました(一度だけ野犬の群れに囲まれた時は焦りましたが)。リードを繋がれるのも全く嫌がりませんでしたし、私たち飼い主と信頼関係にあるというだけでなく、(リュウに比べると)自分で判断して自信を持って行動しているように見えたものです。
そういった経験があるので、ファルコにはできるだけ自由を与えて(オフリードの"訓練"も積極的におこなって)、飼い主がそばにいなくても判断し行動できる(言うならば自立した)犬に育てたいと考えてきました。
人を育てる際には自由裁量を与え、失敗からも学ばせることが重要だと思っているのですが、犬もまた同じように成長すると感じているからです。
こういった考え方を補強してくださったのは、"猟犬訓練の見学"の記事で紹介した KさんとA君のコンビでした。半世紀に渡ってポインターとの猟に入れ込んでこられた Kさんの言葉、"自分の犬を信じきる"。そして、"良い経験を重ねられるようにお膳立てを続ける"ことが犬を成長させるという信念。それらによってこそ、あの息の合った"相棒"のような関係が培われるのだろうと考えています。
オフリードとオンリード、犬はその違いをどの程度認識しているでしょう?
拙ブログでは頻繁に名前を出させていただいているテンプル・グランディン氏は Dogtimeというサイトのインタビューで "犬にとっては全く別物"と断じておられますね(三つめのTGの後半)。
ファルコはどうかというと、オフリード時はより慎重になり、あらゆる外界の情報を集めて判断しているように感じます。オンリードでしつこく臭いを取っている時などは、音に対して鈍感になっていると感じることもあるのですが、離されている時には五感をフルに使っているようです。
実際、オフリードの時の方が遠くからイノシシ等の野生動物を探知します。また、オンリードだと"こっちへ行きたい!"とむずかることがあるのに、オフリード時には(多少の駆け引きを仕掛けてくることはありますが)人間の動きや声掛けを非常に良く観察して、"お利口"な犬の行動をとるんですよ。
オフリードでの"訓練"中は、足の運び方(走り方、止まり方)、尻尾の高さ(角度)と振り方、耳の付け根の筋肉の動き、顔の角度と鼻の使い方などを私はずっと観察しています。これらは、オンリードの時とは比べ物にならないほど変化しますね。
# 野生動物に出会う可能性がある状況では、それに加えて風の向きや音もチェックし続けているので、オンリードで散歩している時の何倍も私自身は(もちろんファルも)疲れてしまいます。
ナットに関しても同じことを感じてきました。大失態を演じてしまったこともありますが、オフリードの"訓練"ができるようになってからは、どんどんこちらの声符や視符を読むようになり、自分で判断して行動を選択することが増えました。そして表情も明るくなっていったのです。
もちろん犬同士のコミュニケーションにおいてもオフリードの意味は大きかったと思います。ファルコとすぐに仲良く?なれたのは、(ファルの性格によるところも大きいとは思いますが)最初からリードという阻害要因のない状態で接することができたからでしょう。
社会的な動物である犬の生態を考えると、本来は放し飼いで近所の犬と交流できるのが理想なんだと思います。
ほんの数十年前までは、日本でも放し飼いは当たり前におこなわれていました。日本犬というプリミティブな犬種特性もあるのでしょうが、他所の犬や他人に吠えるという"番犬"のイメージは、庭で繋ぎ飼いが(狂犬病対策等で)求められるようになって確立したものではないでしょうか。
私の子供の頃(半世紀近くも前のことですね)には野良犬をよくみかけたものですが、彼らは(雑種であることも寄与してか)たいていはフレンドリーで、人に危害を加えるようなことはなかったと記憶しています。
事故を起こす"危険な犬"というのは、無茶なブリーディング、繋ぎ飼いや他犬との触れ合いを奪った社会的行動を育まない飼い方等によって、ごく最近になって人間が押し付けた結果でしかないと思うのです。
もちろん、車が増え、都会では人も溢れかえった現代の日本においては、放し飼いは(よほど条件が揃った田舎等でない限り)現実的な選択肢ではないでしょう。法令等においても"原則として放し飼いは禁止されている"と認識していることは以前にも書きました。
が、多くの都道府県においては"運動"や"訓練"のためにリードを離すこと自体は違法ではありません(残念ながら兵庫県では"訓練"でなければ許容されませんが)。なのに、"どんな場所においてもノーリードはダメ"と断じる風潮に、私はどうしても不安を感じるのです。
"犬と猫と人間と"の記事で殺処分のことに触れた際、日本とアメリカはヨーロッパ諸国と比べて"引き綱条例"に違いがあると言及しました。この言葉はあまり一般的ではなさそうですが、アメリカの"Leash Laws"の訳として、テンプル・グランディン氏の"動物感覚"の中に出てきた単語でした。
"Making Animals Happy"を読んだ際にも Leash Lawsに対する懸念が書かれていたので、今回の一連のオフリード論の中で引用しようと考えていたのですが... 日本語版の"動物が幸せを感じるとき"を引っ張り出してみたところ、大きなショックを受けてしまいました。
イギリス版にはあった Leash Lawsに関する記述がないのです。アメリカの原版である "Animals Make Us Human"もチェックしてみると、当然のように言及されています。
犬の生活は、ほんの二、三十年前とくらべると大きく変化した。犬は、もはや自由ではない。どんな影響が出ているのか、まだだれにもわからない。犬の同種間攻撃は、統計上でも、私が子どものころより、今日のほうが多いだろう。人間に対する攻撃が増えているのかどうか、はっきりしたことは言えないが、犬の咬みつき事件は一九八六年から九四年の八年間で三六パーセント増加している。この期間に犬の数は二パーセントしか増えていないので、それが原因とは言えない。犬に対する攻撃と人間に対する攻撃は、遺伝的に性質が異なる。だから、人間への攻撃が増えていなくても、犬への攻撃が増加するということもありうる。
犬はどのくらいの時間なら、ひとりぼっちにされても、精神的に満足していられるのだろうか。・・・
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.61-62より引用)
"犬のもっとも大切な情動"というセクションの記述なのですが、"攻撃が増加するということもありうる。"の後には、本来はグランディン氏の問題提起の文(とシーザー・ミラン氏にも関したパラグラフも)が続いているのです。
日本語版の読者には隠されているパラグラフを締めくくる文は下記のもの。
My question is: Are we seeing an unintended consequence of leash laws? By passing laws to make life safer for dogs, did we make it more dangerous for people?
(Temple Grandinら著 「Animals Make Us Human - Creating the best life for animals」 p.41より引用)
私の懸念というのは: 我々は"引き綱条例"の意図しない結果を見ているんじゃないかということ。犬達の命を護る法を可決したことによって、我々は人々をより危険に晒してしまったのではないだろうか?
実は、Leash Lawsが意図的に隠されている箇所は他にもあります。
このようなことも、やはり、柵のある庭がもたらした悪い影響のひとつだ。犬はペットではなく、さながら動物園の動物と化し、家や柵のある庭は、動物園の囲い同然になっている。現代のような状況では、犬が自然でない暮らしをせざるをえないという現実を、どうやって埋め合わせるか、考えてやらなければならない。
仕事で一日中家を空けるなら、飼うべきでないか、あるいは二匹、できれば相性のいい犬同士を飼うべきだろう。・・・
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.62より引用)
"柵のある庭"と訳されている部分の原文は、"leash laws and fenced yards"です。読みやすさのために端折ったと言い訳ができるような省略ではないと私は考えます。
"動物が幸せを感じるとき"が出版されたのは 2011年の末ですが、同じ訳者と出版社の"動物感覚"(2006年出版)では、Leash Lawsに関する隠蔽はおこなわれていません。
引き綱条例に問題があると考える理由は、どちらの犬もつねにそれぞれの庭に入れられていることだ。引き綱条例は、動物が野生で行動するときの基本原理を無視しているといえるかもしれない。自然界では、動物は自由に行き来して、なじみのある動物に大きなけがをさせることは、ほとんどといっていいほどない。ところが、柵で囲まれた庭でとなりあわせで暮らしている犬は、折があれば、しばしば、傷つけあい、長年の知り合いの場合でさえも容赦しないことがわかった。これは、適切なつきあいが助けにならない例かもしれない。犬は適切なつきあいがあったのだが、環境−柵で囲まれた庭−が適切でなかったのだ。
(テンプル・グランディンら著「動物感覚 −アニマル・マインドを読み解く」 p.214-215より引用)
5年余りを経て出版された新しい書籍の方では、なぜ意図的な(としか思えない)改ざんがなされてしまったのでしょう?
私は、"引き綱条例"に疑問を投げかけることに対して、何らかの圧力がかかったんじゃないかと勘ぐっています。某テレビの犬番組でも、最近は不自然にロングリードが用いられている(複数の犬が絡み合い危険だと思えるようなシーンにおいても)のも同じ動きなのかもしれません。
日本においては、既にリードを外すことはタブーになってしまったのかと暗澹たる気持ちになってしまいました。
"タブー"は思考停止を引き起こして、改善を放棄することに他なりません。
日本国内においても同様の咬傷事件のデータがないかと探してみたのですが、けい留が一般的になる前の昭和初期の頃の数字は見当たりませんでした。
グランディン氏のアメリカのデータとは直接比較できませんが、環境省のこのページの"別添2 犬による咬傷事故件数"の情報をグラフ化してみたので掲載しておきます。
(調査データが安定した)1981年から 2009年までの日本全国の(人間に対する)犬による咬傷事故件数の推移をご覧ください。別の資料によるとこの期間に犬の登録数は 2倍強に増えているようですが、上のグラフにプロットされているのは、あくまでも事故の件数そのものです。
"けい留中"というのは原資料中では"犬舎等にけい留中"と記載されているもの、"運動中"というのは同様に"けい留して運動中"と分類されているものです。したがって、"運動中"というのがオンリードでの散歩等を指し、オフリードに関しては"放し飼い"の中に含まれていると考えられるでしょう。
咬傷事故全体が激減しているにもかかわらず、"運動中"すなわちオンリードでの散歩等の事故だけは横ばい状態にあるのは目を引きます。オンリード時の事故が占める割合は、実に 2.5倍にも増加しているんですよ。
これはいったい何を意味しているのでしょう?
"ノーリードは悪"、"リードは命綱"というのが常識化して、本来の犬の幸せや、イギリスやドイツに見られるような人と犬の共存社会からどんどん乖離していく日本。こんなことで、どうやったら同行避難がうまくいくというのでしょう?
こうやってこの本を書いているのは、動物がストレスの少ない生活をして、痛みのないすみやかな死を迎えるだけでなく、それ以上のものを得ることができればと願うからだ。動物にも、なにかやりがいのあることをして楽しい生涯をおくってもらいたい。私たちにはその責任があるのだ。
(テンプル・グランディンら著「動物感覚 −アニマル・マインドを読み解く」 p.403より引用)
死を動物に起こりうる最悪の事態と考える人がいる。放し飼いの犬は、車に轢かれて死ぬこともあるが、他者とふれあう生活は充実しているだろう。家に閉じこめられている犬は、車に轢き殺されることはあまりないだろうが、飼い主がたっぷり遊んでやったり、相手になったりしてやらなければ、生活の質は放し飼いの犬より低いかもしれない。動物にとっていちばん大切なものは、生活の質だと私は考える。そのために必要なものは三つ、一に健康、二に痛みや好ましくない情動からの解放、三に「探索」と「遊び」を刺激する活動だ。
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.353-354より引用)
"動物が幸せを感じるとき"をあらためて読み直した際に、何度も引き合いに出されている書籍も一緒に読むことにしました。"マールのドア"。
"犬と人の関係"について私が理想とすることがたくさん詰まっている本でした。"雑記帳"カテゴリとして書きなぐってきた、"犬の知性"、"犬と人の共進化"、"犬への想い"などにも触れられています。
内容を解説する趣味はないので、プロローグの部分だけを引用させていただくことにしますが、ぜひ、一人でも多くの方に読んで欲しいと願っている素晴らしい本です。
この本は、ぼくとともに暮らした、マールという名前の一頭の犬の物語だ。そして、都市化が進む現代の社会で生きなければならない犬たちの物語でもあり、さらには、犬の生活を枠にはめるのではなく人間のほうが生活を少し変えれば、犬がどんなに幸福に暮らせるかを語る本でもある。
マールは幸運にも田舎で生涯を過ごした。文明と野生の世界との境界が今でもまだ曖昧な、ワイオミング州北西部で暮らしたのだ。彼は犬用ドアを出入りして、広大な大自然に遊び、自由を満喫した。とはいえ、ぼくがマールとの生活から学んだことの数々は、どんな場所でも実践できるはずだ。犬用ドアをつけるという物理的な対策の効用もたしかに大きかったけれど、マールがぼくに教えてくれたのは、むしろ心や感情の領域にそうしたドアを設けることの大切さであり、それこそが犬の可能性を育てるという真実だった。訓練ではなく、仲間としての結びつきの大切さ。理論ではなく、実践だった。
そして、なによりも重要なのは、日々のどんな場面でも犬のリードをゆるめようという心であり、犬をできるかぎり頻繁に完全に自由にして、鼻の向くままに走らせ、自力で学ばせることなのだ。
(テッド・ケラソテ著「マールのドア −大自然で暮らしたぼくと犬」 p.7より引用)
私が本当の"命綱"だと考えているものは、犬自身が自分で判断して行動できる能力と、飼い主(やその他の人間)との信頼関係です。
リードはそれを補佐する二次的なセーフティネットにすぎません。
今の日本においては、嫌犬家や、中途半端に犬をかわいがる飼い主の主張によって、"ノーリードは悪"というイメージが浸透しつつあります。
一時流行っていた"オフリード写真掲載のブログ狩り"は少し息を潜めたのかもしれませんが、最近は"リードは命綱"という標語のもとに、"ノーリードは飼い主失格"のレッテルを貼るのがトレンドのようです。そして、法的には(控えめに表現しても)グレーなドッグランでなら自由にすれば良いという風潮...
多少意識の高い愛犬家の方々は、問題点が、社会化不足や、飼い主の責任意識の欠如によるものだと気付いてはいても、飼い主のモラルが全体的に改善するまでは現状に甘んじるしかないと諦めておられるように見受けられます。
が、そんな悠長なことを言っているうちに、(何らかの抜本的な解決策を見いださなければ)犬を取り巻く社会環境が致命的に悪化してしまうんじゃないかと強い危機感を感じているのです。
今までの記事からお察しいただけるように、私はオフリードに対して肯定的な考えを持っています。もちろん、一定のマナーと安全が担保される場合についてはという条件付きではありますが。
単刀直入に書いてしまうと、私は"適切なオフリードは健全な犬を育てる"と考えているのです。
私がこう思うようになったのは、実家にチヨとリュウが居た頃でした。チヨは人の気持ちに敏感で言うこともよく聞いたので、両親が塀に囲まれた広い庭で自由に放し飼いにしていることが多かった犬。一方、リュウは多少問題行動も起こした(父を咬んだこともあります)ので、鎖に繋がれている時間が長かった子です。
当時の田舎は、今のように"ノーリード禁止"の風潮はありませんでしたから、車や人が来ない里山や冬の田んぼの中ではオフリードで散歩するのが当たり前でした。
リードのオン/オフの違いを明瞭に見せたのはリュウの方です。リードに繋いでいる際には、必ずチヨよりも先を歩きたがりグイグイ引っ張るので、20年近く前にもハーネスを試してみたくらいです(後ずさりで抜くのですぐに止めましたが)。
ところが、オフリードにすると、視界の広がる田んぼの中でも私達人間から20mほどしか離れられないのです。しょっちゅうこちらを気にして、人間の前後を行ったり来たりするだけ。山道などでは 5mくらいしか距離を空けないで近くをウロウロ。そのくせ、リードを繋がれるのは嫌で(近くを)逃げ回るという臆病な(自信のない)犬に育ってしまっていました。
チヨの方は林の中などではかなりの距離の冒険に出るのですが、呼べば戻ってくるので安心してオフリードにすることができました(一度だけ野犬の群れに囲まれた時は焦りましたが)。リードを繋がれるのも全く嫌がりませんでしたし、私たち飼い主と信頼関係にあるというだけでなく、(リュウに比べると)自分で判断して自信を持って行動しているように見えたものです。
そういった経験があるので、ファルコにはできるだけ自由を与えて(オフリードの"訓練"も積極的におこなって)、飼い主がそばにいなくても判断し行動できる(言うならば自立した)犬に育てたいと考えてきました。
人を育てる際には自由裁量を与え、失敗からも学ばせることが重要だと思っているのですが、犬もまた同じように成長すると感じているからです。
こういった考え方を補強してくださったのは、"猟犬訓練の見学"の記事で紹介した KさんとA君のコンビでした。半世紀に渡ってポインターとの猟に入れ込んでこられた Kさんの言葉、"自分の犬を信じきる"。そして、"良い経験を重ねられるようにお膳立てを続ける"ことが犬を成長させるという信念。それらによってこそ、あの息の合った"相棒"のような関係が培われるのだろうと考えています。
オフリードとオンリード、犬はその違いをどの程度認識しているでしょう?
拙ブログでは頻繁に名前を出させていただいているテンプル・グランディン氏は Dogtimeというサイトのインタビューで "犬にとっては全く別物"と断じておられますね(三つめのTGの後半)。
ファルコはどうかというと、オフリード時はより慎重になり、あらゆる外界の情報を集めて判断しているように感じます。オンリードでしつこく臭いを取っている時などは、音に対して鈍感になっていると感じることもあるのですが、離されている時には五感をフルに使っているようです。
実際、オフリードの時の方が遠くからイノシシ等の野生動物を探知します。また、オンリードだと"こっちへ行きたい!"とむずかることがあるのに、オフリード時には(多少の駆け引きを仕掛けてくることはありますが)人間の動きや声掛けを非常に良く観察して、"お利口"な犬の行動をとるんですよ。
オフリードでの"訓練"中は、足の運び方(走り方、止まり方)、尻尾の高さ(角度)と振り方、耳の付け根の筋肉の動き、顔の角度と鼻の使い方などを私はずっと観察しています。これらは、オンリードの時とは比べ物にならないほど変化しますね。
# 野生動物に出会う可能性がある状況では、それに加えて風の向きや音もチェックし続けているので、オンリードで散歩している時の何倍も私自身は(もちろんファルも)疲れてしまいます。
ナットに関しても同じことを感じてきました。大失態を演じてしまったこともありますが、オフリードの"訓練"ができるようになってからは、どんどんこちらの声符や視符を読むようになり、自分で判断して行動を選択することが増えました。そして表情も明るくなっていったのです。
もちろん犬同士のコミュニケーションにおいてもオフリードの意味は大きかったと思います。ファルコとすぐに仲良く?なれたのは、(ファルの性格によるところも大きいとは思いますが)最初からリードという阻害要因のない状態で接することができたからでしょう。
社会的な動物である犬の生態を考えると、本来は放し飼いで近所の犬と交流できるのが理想なんだと思います。
ほんの数十年前までは、日本でも放し飼いは当たり前におこなわれていました。日本犬というプリミティブな犬種特性もあるのでしょうが、他所の犬や他人に吠えるという"番犬"のイメージは、庭で繋ぎ飼いが(狂犬病対策等で)求められるようになって確立したものではないでしょうか。
私の子供の頃(半世紀近くも前のことですね)には野良犬をよくみかけたものですが、彼らは(雑種であることも寄与してか)たいていはフレンドリーで、人に危害を加えるようなことはなかったと記憶しています。
事故を起こす"危険な犬"というのは、無茶なブリーディング、繋ぎ飼いや他犬との触れ合いを奪った社会的行動を育まない飼い方等によって、ごく最近になって人間が押し付けた結果でしかないと思うのです。
もちろん、車が増え、都会では人も溢れかえった現代の日本においては、放し飼いは(よほど条件が揃った田舎等でない限り)現実的な選択肢ではないでしょう。法令等においても"原則として放し飼いは禁止されている"と認識していることは以前にも書きました。
が、多くの都道府県においては"運動"や"訓練"のためにリードを離すこと自体は違法ではありません(残念ながら兵庫県では"訓練"でなければ許容されませんが)。なのに、"どんな場所においてもノーリードはダメ"と断じる風潮に、私はどうしても不安を感じるのです。
"犬と猫と人間と"の記事で殺処分のことに触れた際、日本とアメリカはヨーロッパ諸国と比べて"引き綱条例"に違いがあると言及しました。この言葉はあまり一般的ではなさそうですが、アメリカの"Leash Laws"の訳として、テンプル・グランディン氏の"動物感覚"の中に出てきた単語でした。
"Making Animals Happy"を読んだ際にも Leash Lawsに対する懸念が書かれていたので、今回の一連のオフリード論の中で引用しようと考えていたのですが... 日本語版の"動物が幸せを感じるとき"を引っ張り出してみたところ、大きなショックを受けてしまいました。
イギリス版にはあった Leash Lawsに関する記述がないのです。アメリカの原版である "Animals Make Us Human"もチェックしてみると、当然のように言及されています。
犬の生活は、ほんの二、三十年前とくらべると大きく変化した。犬は、もはや自由ではない。どんな影響が出ているのか、まだだれにもわからない。犬の同種間攻撃は、統計上でも、私が子どものころより、今日のほうが多いだろう。人間に対する攻撃が増えているのかどうか、はっきりしたことは言えないが、犬の咬みつき事件は一九八六年から九四年の八年間で三六パーセント増加している。この期間に犬の数は二パーセントしか増えていないので、それが原因とは言えない。犬に対する攻撃と人間に対する攻撃は、遺伝的に性質が異なる。だから、人間への攻撃が増えていなくても、犬への攻撃が増加するということもありうる。
犬はどのくらいの時間なら、ひとりぼっちにされても、精神的に満足していられるのだろうか。・・・
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.61-62より引用)
"犬のもっとも大切な情動"というセクションの記述なのですが、"攻撃が増加するということもありうる。"の後には、本来はグランディン氏の問題提起の文(とシーザー・ミラン氏にも関したパラグラフも)が続いているのです。
日本語版の読者には隠されているパラグラフを締めくくる文は下記のもの。
My question is: Are we seeing an unintended consequence of leash laws? By passing laws to make life safer for dogs, did we make it more dangerous for people?
(Temple Grandinら著 「Animals Make Us Human - Creating the best life for animals」 p.41より引用)
私の懸念というのは: 我々は"引き綱条例"の意図しない結果を見ているんじゃないかということ。犬達の命を護る法を可決したことによって、我々は人々をより危険に晒してしまったのではないだろうか?
実は、Leash Lawsが意図的に隠されている箇所は他にもあります。
このようなことも、やはり、柵のある庭がもたらした悪い影響のひとつだ。犬はペットではなく、さながら動物園の動物と化し、家や柵のある庭は、動物園の囲い同然になっている。現代のような状況では、犬が自然でない暮らしをせざるをえないという現実を、どうやって埋め合わせるか、考えてやらなければならない。
仕事で一日中家を空けるなら、飼うべきでないか、あるいは二匹、できれば相性のいい犬同士を飼うべきだろう。・・・
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.62より引用)
"柵のある庭"と訳されている部分の原文は、"leash laws and fenced yards"です。読みやすさのために端折ったと言い訳ができるような省略ではないと私は考えます。
"動物が幸せを感じるとき"が出版されたのは 2011年の末ですが、同じ訳者と出版社の"動物感覚"(2006年出版)では、Leash Lawsに関する隠蔽はおこなわれていません。
引き綱条例に問題があると考える理由は、どちらの犬もつねにそれぞれの庭に入れられていることだ。引き綱条例は、動物が野生で行動するときの基本原理を無視しているといえるかもしれない。自然界では、動物は自由に行き来して、なじみのある動物に大きなけがをさせることは、ほとんどといっていいほどない。ところが、柵で囲まれた庭でとなりあわせで暮らしている犬は、折があれば、しばしば、傷つけあい、長年の知り合いの場合でさえも容赦しないことがわかった。これは、適切なつきあいが助けにならない例かもしれない。犬は適切なつきあいがあったのだが、環境−柵で囲まれた庭−が適切でなかったのだ。
(テンプル・グランディンら著「動物感覚 −アニマル・マインドを読み解く」 p.214-215より引用)
5年余りを経て出版された新しい書籍の方では、なぜ意図的な(としか思えない)改ざんがなされてしまったのでしょう?
私は、"引き綱条例"に疑問を投げかけることに対して、何らかの圧力がかかったんじゃないかと勘ぐっています。某テレビの犬番組でも、最近は不自然にロングリードが用いられている(複数の犬が絡み合い危険だと思えるようなシーンにおいても)のも同じ動きなのかもしれません。
日本においては、既にリードを外すことはタブーになってしまったのかと暗澹たる気持ちになってしまいました。
"タブー"は思考停止を引き起こして、改善を放棄することに他なりません。
日本国内においても同様の咬傷事件のデータがないかと探してみたのですが、けい留が一般的になる前の昭和初期の頃の数字は見当たりませんでした。
グランディン氏のアメリカのデータとは直接比較できませんが、環境省のこのページの"別添2 犬による咬傷事故件数"の情報をグラフ化してみたので掲載しておきます。
(調査データが安定した)1981年から 2009年までの日本全国の(人間に対する)犬による咬傷事故件数の推移をご覧ください。別の資料によるとこの期間に犬の登録数は 2倍強に増えているようですが、上のグラフにプロットされているのは、あくまでも事故の件数そのものです。
"けい留中"というのは原資料中では"犬舎等にけい留中"と記載されているもの、"運動中"というのは同様に"けい留して運動中"と分類されているものです。したがって、"運動中"というのがオンリードでの散歩等を指し、オフリードに関しては"放し飼い"の中に含まれていると考えられるでしょう。
咬傷事故全体が激減しているにもかかわらず、"運動中"すなわちオンリードでの散歩等の事故だけは横ばい状態にあるのは目を引きます。オンリード時の事故が占める割合は、実に 2.5倍にも増加しているんですよ。
これはいったい何を意味しているのでしょう?
"ノーリードは悪"、"リードは命綱"というのが常識化して、本来の犬の幸せや、イギリスやドイツに見られるような人と犬の共存社会からどんどん乖離していく日本。こんなことで、どうやったら同行避難がうまくいくというのでしょう?
こうやってこの本を書いているのは、動物がストレスの少ない生活をして、痛みのないすみやかな死を迎えるだけでなく、それ以上のものを得ることができればと願うからだ。動物にも、なにかやりがいのあることをして楽しい生涯をおくってもらいたい。私たちにはその責任があるのだ。
(テンプル・グランディンら著「動物感覚 −アニマル・マインドを読み解く」 p.403より引用)
死を動物に起こりうる最悪の事態と考える人がいる。放し飼いの犬は、車に轢かれて死ぬこともあるが、他者とふれあう生活は充実しているだろう。家に閉じこめられている犬は、車に轢き殺されることはあまりないだろうが、飼い主がたっぷり遊んでやったり、相手になったりしてやらなければ、生活の質は放し飼いの犬より低いかもしれない。動物にとっていちばん大切なものは、生活の質だと私は考える。そのために必要なものは三つ、一に健康、二に痛みや好ましくない情動からの解放、三に「探索」と「遊び」を刺激する活動だ。
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.353-354より引用)
"動物が幸せを感じるとき"をあらためて読み直した際に、何度も引き合いに出されている書籍も一緒に読むことにしました。"マールのドア"。
"犬と人の関係"について私が理想とすることがたくさん詰まっている本でした。"雑記帳"カテゴリとして書きなぐってきた、"犬の知性"、"犬と人の共進化"、"犬への想い"などにも触れられています。
内容を解説する趣味はないので、プロローグの部分だけを引用させていただくことにしますが、ぜひ、一人でも多くの方に読んで欲しいと願っている素晴らしい本です。
この本は、ぼくとともに暮らした、マールという名前の一頭の犬の物語だ。そして、都市化が進む現代の社会で生きなければならない犬たちの物語でもあり、さらには、犬の生活を枠にはめるのではなく人間のほうが生活を少し変えれば、犬がどんなに幸福に暮らせるかを語る本でもある。
マールは幸運にも田舎で生涯を過ごした。文明と野生の世界との境界が今でもまだ曖昧な、ワイオミング州北西部で暮らしたのだ。彼は犬用ドアを出入りして、広大な大自然に遊び、自由を満喫した。とはいえ、ぼくがマールとの生活から学んだことの数々は、どんな場所でも実践できるはずだ。犬用ドアをつけるという物理的な対策の効用もたしかに大きかったけれど、マールがぼくに教えてくれたのは、むしろ心や感情の領域にそうしたドアを設けることの大切さであり、それこそが犬の可能性を育てるという真実だった。訓練ではなく、仲間としての結びつきの大切さ。理論ではなく、実践だった。
そして、なによりも重要なのは、日々のどんな場面でも犬のリードをゆるめようという心であり、犬をできるかぎり頻繁に完全に自由にして、鼻の向くままに走らせ、自力で学ばせることなのだ。
(テッド・ケラソテ著「マールのドア −大自然で暮らしたぼくと犬」 p.7より引用)
私が本当の"命綱"だと考えているものは、犬自身が自分で判断して行動できる能力と、飼い主(やその他の人間)との信頼関係です。
リードはそれを補佐する二次的なセーフティネットにすぎません。
posted by Tosh at 23:59| Comment(5)
| 雑記帳
2013年04月27日
Episode IV
今年はサクラがほとんど咲かなかったこともあって、いつ春が来たのかよくわからないままGWを迎えた気がするファルコ地方です。
気が付くと既に木々が若葉を萌やし、ピンク色の花が目立つ季節。
ナットを亡くした際、ファルは危惧したほど気落ちした様子を見せませんでした。数日間はあちこち探したり、散歩に出ても"誰か忘れてない?"って素振りを見せたのですが、一週間もしないうちに、3人家族の頃に戻ったように落ち着いたとも感じていました。
が、2ヶ月ほど経った頃から、平日朝に仕事に出かける際に、玄関で長い間じっとこちらを見つめて"今日も出かけちゃうの...?"という表情を見せることが気になり出しました。ナットが居た時には、割とあっさりと"行ってらっしゃい"と見送ってくれていたように思うのです。
3月に入る頃に過去の記事を読み返していたら、写真や動画に刻まれたナットと庭で遊んでいる時のイキイキした表情が、今はあまり見られないことにも気が付きました。
ファルとナットはいつも行動を共にするといった間柄ではなかったのですが、留守番をする際にも一人じゃないというのは、きっと大きな意味を持っていたのでしょう。そして、バトルを仕掛け合えるナットの存在は、ファルの生活をずいぶん豊かにしていたことにあらためて思い至ったのです。
新しい家族をもう一頭迎えたいと考えるようになるのに、それほど時間を必要としませんでした。
どんな子を?と考え出した時、当然のように保護犬を想定していました。そして、ゴールデンの男の子が良いなという思いは最初から持っていました。
実際にネットで情報を探し始めてみると、自分でもびっくりするくらい大人げない想いが沸き上がってきて戸惑うことになります。
"ナットが旅立ってから生まれた子を迎えたい"と。
新しい家族を待っているたくさんの犬達、もちろんゴールデンのオスも何頭もいます。が、どうしてもその成犬達の中から選ぶことはできそうにありませんでした。ナットと暮らした日々がもっと長かったら、そんな風に考えなかったかもしれません。あるいは、ある本を読んでいなかったら...
結局、何ヶ月かすればレスキューされたゴールデンのパピーも出てくるだろうと、しばらく待ってみることにしたのは3月の中旬です。
ところが、今月の始めに思いもかけなかった話が舞い込んできました。お友達のところで生まれた仔を譲っていただけるというのです。
ほんの少しだけ迷いましたが、その"縁"を大切にしたいと考えました。
子どもの頃から、実家にはずっと犬達がいました。が、ちゃんと世話をするのは両親(主に母)でしたから、一緒に遊んだり散歩するくらいの私は飼い主と言える状態ではなかったかもしれません。とは言え、チヨやリュウを含むその子達と暮らしたことは、私の犬に対する思いの根っこの部分を構成しています。私にとって、犬との暮らしの第一期と呼ぶべき時期かもしれません。
全てに自身で責任を持って飼い始めた犬は、ファルが最初です。ファルとカミさんの3人家族だった頃が、次の節目だったのは間違いありません。
2年前にはナットがやってきました。3つ目の時期は波乱に満ちていたとも言えますが、その分、いろんなことを真剣に考えさせられ、人も犬も共に成長できたと思っています。
そして、今日から、新しいピリオドが始まったのです!
今朝、元気一杯のパピーを迎えに行ってきました。
名前はペニー(ペネロピ)、ゴールデンの女の子です!
# ファルはどう対応して良いかわからずに、逃げ回っています。
1ヶ月前まで、次に迎える子はオスと決めてかかっていたので、実は心の中で決めている名前がありました。昔の記事で触れたこともある大好きな映画の主人公"ボルト"。ですが、やってくることになったのは女の子... というわけで、飼い主の少女の名前 Pennyを愛称として命名したんですよ。
生後80日足らずなのですが、体重は 11.5Kgあります!
今日はあまりかまわずに環境に馴染ませようと考えていたのですが、本犬はいたって平気そうです。そこら中を探検して走り回っていましたよ。
新しいメンバーを迎えた私たち家族のことを、これからもどうぞよろしくお願いいたします!
気が付くと既に木々が若葉を萌やし、ピンク色の花が目立つ季節。
ナットを亡くした際、ファルは危惧したほど気落ちした様子を見せませんでした。数日間はあちこち探したり、散歩に出ても"誰か忘れてない?"って素振りを見せたのですが、一週間もしないうちに、3人家族の頃に戻ったように落ち着いたとも感じていました。
が、2ヶ月ほど経った頃から、平日朝に仕事に出かける際に、玄関で長い間じっとこちらを見つめて"今日も出かけちゃうの...?"という表情を見せることが気になり出しました。ナットが居た時には、割とあっさりと"行ってらっしゃい"と見送ってくれていたように思うのです。
3月に入る頃に過去の記事を読み返していたら、写真や動画に刻まれたナットと庭で遊んでいる時のイキイキした表情が、今はあまり見られないことにも気が付きました。
ファルとナットはいつも行動を共にするといった間柄ではなかったのですが、留守番をする際にも一人じゃないというのは、きっと大きな意味を持っていたのでしょう。そして、バトルを仕掛け合えるナットの存在は、ファルの生活をずいぶん豊かにしていたことにあらためて思い至ったのです。
新しい家族をもう一頭迎えたいと考えるようになるのに、それほど時間を必要としませんでした。
どんな子を?と考え出した時、当然のように保護犬を想定していました。そして、ゴールデンの男の子が良いなという思いは最初から持っていました。
実際にネットで情報を探し始めてみると、自分でもびっくりするくらい大人げない想いが沸き上がってきて戸惑うことになります。
"ナットが旅立ってから生まれた子を迎えたい"と。
新しい家族を待っているたくさんの犬達、もちろんゴールデンのオスも何頭もいます。が、どうしてもその成犬達の中から選ぶことはできそうにありませんでした。ナットと暮らした日々がもっと長かったら、そんな風に考えなかったかもしれません。あるいは、ある本を読んでいなかったら...
結局、何ヶ月かすればレスキューされたゴールデンのパピーも出てくるだろうと、しばらく待ってみることにしたのは3月の中旬です。
ところが、今月の始めに思いもかけなかった話が舞い込んできました。お友達のところで生まれた仔を譲っていただけるというのです。
ほんの少しだけ迷いましたが、その"縁"を大切にしたいと考えました。
子どもの頃から、実家にはずっと犬達がいました。が、ちゃんと世話をするのは両親(主に母)でしたから、一緒に遊んだり散歩するくらいの私は飼い主と言える状態ではなかったかもしれません。とは言え、チヨやリュウを含むその子達と暮らしたことは、私の犬に対する思いの根っこの部分を構成しています。私にとって、犬との暮らしの第一期と呼ぶべき時期かもしれません。
全てに自身で責任を持って飼い始めた犬は、ファルが最初です。ファルとカミさんの3人家族だった頃が、次の節目だったのは間違いありません。
2年前にはナットがやってきました。3つ目の時期は波乱に満ちていたとも言えますが、その分、いろんなことを真剣に考えさせられ、人も犬も共に成長できたと思っています。
そして、今日から、新しいピリオドが始まったのです!
今朝、元気一杯のパピーを迎えに行ってきました。
名前はペニー(ペネロピ)、ゴールデンの女の子です!
# ファルはどう対応して良いかわからずに、逃げ回っています。
1ヶ月前まで、次に迎える子はオスと決めてかかっていたので、実は心の中で決めている名前がありました。昔の記事で触れたこともある大好きな映画の主人公"ボルト"。ですが、やってくることになったのは女の子... というわけで、飼い主の少女の名前 Pennyを愛称として命名したんですよ。
生後80日足らずなのですが、体重は 11.5Kgあります!
今日はあまりかまわずに環境に馴染ませようと考えていたのですが、本犬はいたって平気そうです。そこら中を探検して走り回っていましたよ。
新しいメンバーを迎えた私たち家族のことを、これからもどうぞよろしくお願いいたします!
posted by Tosh at 23:59| Comment(10)
| ワンズ日記
2013年04月29日
ダンボ娘と兄ちゃん
良いお天気で始まったGW。
みずみずしい新緑の生命感! 大好きな季節の到来です。
二日目の昨日は、ペニーを庭に出してみることにしました。
というわけで、今回は庭での写真を大量に記録しておきますね。
午前の部では、フラットでコンクリ敷きの玄関前のエリアだけ。
ペニーは部屋の中でも走るのが好きなんですが、やっぱり広い外の方が楽しそうです。
ペニーが甘えようとすると、一日目は困った顔をして逃げ回っていただけのファルですが、二日目には時々"ヴ〜"と唸るようになっていました。
アンタもいろんな子にシツコク甘えまくってたくせに... 忘れちゃったの? > ファル
ところが、外に出すとペニーが近づいても平気なようです。一緒に走ったりもしていたんですよ。
外だとペニーの方も、ファル兄ちゃんへの"構って、構って!"攻撃以外にも、興味を引くものがたくさんあるからでしょうか。
特に草や木の枝を齧るのは楽しいものね! > ペニー
まだ耳の比率がかなり大きいので、ぱっと見た感じはスパニエルみたい。
ゴハンを食べる時に、耳の先にふやかしフードが付いちゃうんですよ。
どのくらい耳が大きいか検証!
これじゃぁ、走っているとダンボみたいにパタパタするわけですよね。
キンモクセイが若芽を大きく延ばしています。背景はオウゴンマサキ。
午後の部ではメインガーデンに下ろしてみました。
探検好きなペニー、大興奮です!
驚いたことに、ファルがオモチャを見せびらかしてペニーを誘い始めました! が、ペニーの方は、その遊びの意味がまだわからないようです... ファルの方は、なんでこの子は引っ張りっこにノってくれないんだろう?って顔をしていましたね。
今日も外で遊んだのですが、更に行動が変化していました。
ペニーのそばにファルがオモチャを置くようなことも! ナット(や他の成犬、あるいは人間)との遊びの場合は、そうやっておいて相手がオモチャに興味を示すと、サッと銜えて"ほら、追いかけて!"っていう駆け引きをするわけですが、ペニー相手だと全くパターンが異なります。
ペニーがそれを取って走るのをじっと見ているだけ。近くにペニーがいる場合には必ずオモチャを譲るんですよ!
昨日の時点でも、ペニーの様子をずっと見守っているかのような行動も見られました。急に"お兄ちゃん"に目覚めたのかな?
とは言っても、今日もやっぱり(室内だと)ガンガン甘えられるのは嫌なようです。一度は"ウォン"と吠えたりもしていました。
ファルはパピーの頃から室内ではおとなしい(オンとオフのはっきりした)子でしたから、彼なりの教育的指導?なのかもしれませんね。
# もっとも、ナットとは室内でもバトルをしたので、ペニーが対等な遊び相手に成長したら二頭でハッチャケるかもしれませんけど...
ペニーにとっては全てが新しい発見。世界を知る旅は始まったばかりです。
駆け回ってちょっと疲れたところを一枚。
おもしろかったよねぇ〜
突然の妹の出現にまだ戸惑っていると思うけど、アンタなら良いお兄ちゃんになれるよね! > ファル
庭遊びで疲れたペニーが眠り始めるのを見計らって、ファルと二人でまったりと散歩に出かけました。
今年もケマンソウが見頃を迎えました。
たくさんのハートが、我が家の幸せを祝ってくれているかのようです。
大好きなゲラニウムの仲間、ヒメフウロ。
調べてみたら、花言葉は "静かな人"とか "変わらぬ信頼"なんだそうです。
・・・勝手にファルの花と決めちゃおうかな。
みずみずしい新緑の生命感! 大好きな季節の到来です。
二日目の昨日は、ペニーを庭に出してみることにしました。
というわけで、今回は庭での写真を大量に記録しておきますね。
午前の部では、フラットでコンクリ敷きの玄関前のエリアだけ。
ペニーは部屋の中でも走るのが好きなんですが、やっぱり広い外の方が楽しそうです。
ペニーが甘えようとすると、一日目は困った顔をして逃げ回っていただけのファルですが、二日目には時々"ヴ〜"と唸るようになっていました。
アンタもいろんな子にシツコク甘えまくってたくせに... 忘れちゃったの? > ファル
ところが、外に出すとペニーが近づいても平気なようです。一緒に走ったりもしていたんですよ。
外だとペニーの方も、ファル兄ちゃんへの"構って、構って!"攻撃以外にも、興味を引くものがたくさんあるからでしょうか。
特に草や木の枝を齧るのは楽しいものね! > ペニー
まだ耳の比率がかなり大きいので、ぱっと見た感じはスパニエルみたい。
ゴハンを食べる時に、耳の先にふやかしフードが付いちゃうんですよ。
どのくらい耳が大きいか検証!
これじゃぁ、走っているとダンボみたいにパタパタするわけですよね。
キンモクセイが若芽を大きく延ばしています。背景はオウゴンマサキ。
午後の部ではメインガーデンに下ろしてみました。
探検好きなペニー、大興奮です!
驚いたことに、ファルがオモチャを見せびらかしてペニーを誘い始めました! が、ペニーの方は、その遊びの意味がまだわからないようです... ファルの方は、なんでこの子は引っ張りっこにノってくれないんだろう?って顔をしていましたね。
今日も外で遊んだのですが、更に行動が変化していました。
ペニーのそばにファルがオモチャを置くようなことも! ナット(や他の成犬、あるいは人間)との遊びの場合は、そうやっておいて相手がオモチャに興味を示すと、サッと銜えて"ほら、追いかけて!"っていう駆け引きをするわけですが、ペニー相手だと全くパターンが異なります。
ペニーがそれを取って走るのをじっと見ているだけ。近くにペニーがいる場合には必ずオモチャを譲るんですよ!
昨日の時点でも、ペニーの様子をずっと見守っているかのような行動も見られました。急に"お兄ちゃん"に目覚めたのかな?
とは言っても、今日もやっぱり(室内だと)ガンガン甘えられるのは嫌なようです。一度は"ウォン"と吠えたりもしていました。
ファルはパピーの頃から室内ではおとなしい(オンとオフのはっきりした)子でしたから、彼なりの教育的指導?なのかもしれませんね。
# もっとも、ナットとは室内でもバトルをしたので、ペニーが対等な遊び相手に成長したら二頭でハッチャケるかもしれませんけど...
ペニーにとっては全てが新しい発見。世界を知る旅は始まったばかりです。
駆け回ってちょっと疲れたところを一枚。
おもしろかったよねぇ〜
突然の妹の出現にまだ戸惑っていると思うけど、アンタなら良いお兄ちゃんになれるよね! > ファル
庭遊びで疲れたペニーが眠り始めるのを見計らって、ファルと二人でまったりと散歩に出かけました。
今年もケマンソウが見頃を迎えました。
たくさんのハートが、我が家の幸せを祝ってくれているかのようです。
大好きなゲラニウムの仲間、ヒメフウロ。
調べてみたら、花言葉は "静かな人"とか "変わらぬ信頼"なんだそうです。
・・・勝手にファルの花と決めちゃおうかな。
posted by Tosh at 17:54| Comment(7)
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