"ベルリンとの違い"から書き始めたオフリードの話題。最初に思っていたよりもルール(法令等)関連にエネルギーを割き過ぎて途中で息切れしちゃいましたが、本来書き記したかったことをあともうちょっとだけ述べておきたいと思います。
今の日本においては、嫌犬家や、中途半端に犬をかわいがる飼い主の主張によって、"ノーリードは悪"というイメージが浸透しつつあります。
一時流行っていた"オフリード写真掲載のブログ狩り"は少し息を潜めたのかもしれませんが、最近は"リードは命綱"という標語のもとに、"ノーリードは飼い主失格"のレッテルを貼るのがトレンドのようです。そして、法的には(控えめに表現しても)グレーなドッグランでなら自由にすれば良いという風潮...
多少意識の高い愛犬家の方々は、問題点が、社会化不足や、飼い主の責任意識の欠如によるものだと気付いてはいても、飼い主のモラルが全体的に改善するまでは現状に甘んじるしかないと諦めておられるように見受けられます。
が、そんな悠長なことを言っているうちに、(何らかの抜本的な解決策を見いださなければ)犬を取り巻く社会環境が致命的に悪化してしまうんじゃないかと強い危機感を感じているのです。
今までの記事からお察しいただけるように、私はオフリードに対して肯定的な考えを持っています。もちろん、一定のマナーと安全が担保される場合についてはという条件付きではありますが。
単刀直入に書いてしまうと、私は"適切なオフリードは健全な犬を育てる"と考えているのです。
私がこう思うようになったのは、実家にチヨとリュウが居た頃でした。チヨは人の気持ちに敏感で言うこともよく聞いたので、両親が塀に囲まれた広い庭で自由に放し飼いにしていることが多かった犬。一方、リュウは多少問題行動も起こした(父を咬んだこともあります)ので、鎖に繋がれている時間が長かった子です。
当時の田舎は、今のように"ノーリード禁止"の風潮はありませんでしたから、車や人が来ない里山や冬の田んぼの中ではオフリードで散歩するのが当たり前でした。
リードのオン/オフの違いを明瞭に見せたのはリュウの方です。リードに繋いでいる際には、必ずチヨよりも先を歩きたがりグイグイ引っ張るので、20年近く前にもハーネスを試してみたくらいです(後ずさりで抜くのですぐに止めましたが)。
ところが、オフリードにすると、視界の広がる田んぼの中でも私達人間から20mほどしか離れられないのです。しょっちゅうこちらを気にして、人間の前後を行ったり来たりするだけ。山道などでは 5mくらいしか距離を空けないで近くをウロウロ。そのくせ、リードを繋がれるのは嫌で(近くを)逃げ回るという臆病な(自信のない)犬に育ってしまっていました。
チヨの方は林の中などではかなりの距離の冒険に出るのですが、呼べば戻ってくるので安心してオフリードにすることができました(一度だけ野犬の群れに囲まれた時は焦りましたが)。リードを繋がれるのも全く嫌がりませんでしたし、私たち飼い主と信頼関係にあるというだけでなく、(リュウに比べると)自分で判断して自信を持って行動しているように見えたものです。
そういった経験があるので、ファルコにはできるだけ自由を与えて(オフリードの"訓練"も積極的におこなって)、飼い主がそばにいなくても判断し行動できる(言うならば自立した)犬に育てたいと考えてきました。
人を育てる際には自由裁量を与え、失敗からも学ばせることが重要だと思っているのですが、犬もまた同じように成長すると感じているからです。
こういった考え方を補強してくださったのは、"猟犬訓練の見学"の記事で紹介した KさんとA君のコンビでした。半世紀に渡ってポインターとの猟に入れ込んでこられた Kさんの言葉、"自分の犬を信じきる"。そして、"良い経験を重ねられるようにお膳立てを続ける"ことが犬を成長させるという信念。それらによってこそ、あの息の合った"相棒"のような関係が培われるのだろうと考えています。
オフリードとオンリード、犬はその違いをどの程度認識しているでしょう?
拙ブログでは頻繁に名前を出させていただいているテンプル・グランディン氏は Dogtimeというサイトのインタビューで "犬にとっては全く別物"と断じておられますね(三つめのTGの後半)。
ファルコはどうかというと、オフリード時はより慎重になり、あらゆる外界の情報を集めて判断しているように感じます。オンリードでしつこく臭いを取っている時などは、音に対して鈍感になっていると感じることもあるのですが、離されている時には五感をフルに使っているようです。
実際、オフリードの時の方が遠くからイノシシ等の野生動物を探知します。また、オンリードだと"こっちへ行きたい!"とむずかることがあるのに、オフリード時には(多少の駆け引きを仕掛けてくることはありますが)人間の動きや声掛けを非常に良く観察して、"お利口"な犬の行動をとるんですよ。
オフリードでの"訓練"中は、足の運び方(走り方、止まり方)、尻尾の高さ(角度)と振り方、耳の付け根の筋肉の動き、顔の角度と鼻の使い方などを私はずっと観察しています。これらは、オンリードの時とは比べ物にならないほど変化しますね。
# 野生動物に出会う可能性がある状況では、それに加えて風の向きや音もチェックし続けているので、オンリードで散歩している時の何倍も私自身は(もちろんファルも)疲れてしまいます。
ナットに関しても同じことを感じてきました。大失態を演じてしまったこともありますが、オフリードの"訓練"ができるようになってからは、どんどんこちらの声符や視符を読むようになり、自分で判断して行動を選択することが増えました。そして表情も明るくなっていったのです。
もちろん犬同士のコミュニケーションにおいてもオフリードの意味は大きかったと思います。ファルコとすぐに仲良く?なれたのは、(ファルの性格によるところも大きいとは思いますが)最初からリードという阻害要因のない状態で接することができたからでしょう。
社会的な動物である犬の生態を考えると、本来は放し飼いで近所の犬と交流できるのが理想なんだと思います。
ほんの数十年前までは、日本でも放し飼いは当たり前におこなわれていました。日本犬というプリミティブな犬種特性もあるのでしょうが、他所の犬や他人に吠えるという"番犬"のイメージは、庭で繋ぎ飼いが(狂犬病対策等で)求められるようになって確立したものではないでしょうか。
私の子供の頃(半世紀近くも前のことですね)には野良犬をよくみかけたものですが、彼らは(雑種であることも寄与してか)たいていはフレンドリーで、人に危害を加えるようなことはなかったと記憶しています。
事故を起こす"危険な犬"というのは、無茶なブリーディング、繋ぎ飼いや他犬との触れ合いを奪った社会的行動を育まない飼い方等によって、ごく最近になって人間が押し付けた結果でしかないと思うのです。
もちろん、車が増え、都会では人も溢れかえった現代の日本においては、放し飼いは(よほど条件が揃った田舎等でない限り)現実的な選択肢ではないでしょう。法令等においても"原則として放し飼いは禁止されている"と認識していることは以前にも書きました。
が、多くの都道府県においては"運動"や"訓練"のためにリードを離すこと自体は違法ではありません(残念ながら兵庫県では"訓練"でなければ許容されませんが)。なのに、"どんな場所においてもノーリードはダメ"と断じる風潮に、私はどうしても不安を感じるのです。
"犬と猫と人間と"の記事で殺処分のことに触れた際、日本とアメリカはヨーロッパ諸国と比べて"引き綱条例"に違いがあると言及しました。この言葉はあまり一般的ではなさそうですが、アメリカの"Leash Laws"の訳として、テンプル・グランディン氏の"動物感覚"の中に出てきた単語でした。
"Making Animals Happy"を読んだ際にも Leash Lawsに対する懸念が書かれていたので、今回の一連のオフリード論の中で引用しようと考えていたのですが... 日本語版の"動物が幸せを感じるとき"を引っ張り出してみたところ、大きなショックを受けてしまいました。
イギリス版にはあった Leash Lawsに関する記述がないのです。アメリカの原版である "Animals Make Us Human"もチェックしてみると、当然のように言及されています。
犬の生活は、ほんの二、三十年前とくらべると大きく変化した。犬は、もはや自由ではない。どんな影響が出ているのか、まだだれにもわからない。犬の同種間攻撃は、統計上でも、私が子どものころより、今日のほうが多いだろう。人間に対する攻撃が増えているのかどうか、はっきりしたことは言えないが、犬の咬みつき事件は一九八六年から九四年の八年間で三六パーセント増加している。この期間に犬の数は二パーセントしか増えていないので、それが原因とは言えない。犬に対する攻撃と人間に対する攻撃は、遺伝的に性質が異なる。だから、人間への攻撃が増えていなくても、犬への攻撃が増加するということもありうる。
犬はどのくらいの時間なら、ひとりぼっちにされても、精神的に満足していられるのだろうか。・・・
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.61-62より引用)
"犬のもっとも大切な情動"というセクションの記述なのですが、"攻撃が増加するということもありうる。"の後には、本来はグランディン氏の問題提起の文(とシーザー・ミラン氏にも関したパラグラフも)が続いているのです。
日本語版の読者には隠されているパラグラフを締めくくる文は下記のもの。
My question is: Are we seeing an unintended consequence of leash laws? By passing laws to make life safer for dogs, did we make it more dangerous for people?
(Temple Grandinら著 「Animals Make Us Human - Creating the best life for animals」 p.41より引用)
私の懸念というのは: 我々は"引き綱条例"の意図しない結果を見ているんじゃないかということ。犬達の命を護る法を可決したことによって、我々は人々をより危険に晒してしまったのではないだろうか?
実は、Leash Lawsが意図的に隠されている箇所は他にもあります。
このようなことも、やはり、柵のある庭がもたらした悪い影響のひとつだ。犬はペットではなく、さながら動物園の動物と化し、家や柵のある庭は、動物園の囲い同然になっている。現代のような状況では、犬が自然でない暮らしをせざるをえないという現実を、どうやって埋め合わせるか、考えてやらなければならない。
仕事で一日中家を空けるなら、飼うべきでないか、あるいは二匹、できれば相性のいい犬同士を飼うべきだろう。・・・
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.62より引用)
"柵のある庭"と訳されている部分の原文は、"leash laws and fenced yards"です。読みやすさのために端折ったと言い訳ができるような省略ではないと私は考えます。
"動物が幸せを感じるとき"が出版されたのは 2011年の末ですが、同じ訳者と出版社の"動物感覚"(2006年出版)では、Leash Lawsに関する隠蔽はおこなわれていません。
引き綱条例に問題があると考える理由は、どちらの犬もつねにそれぞれの庭に入れられていることだ。引き綱条例は、動物が野生で行動するときの基本原理を無視しているといえるかもしれない。自然界では、動物は自由に行き来して、なじみのある動物に大きなけがをさせることは、ほとんどといっていいほどない。ところが、柵で囲まれた庭でとなりあわせで暮らしている犬は、折があれば、しばしば、傷つけあい、長年の知り合いの場合でさえも容赦しないことがわかった。これは、適切なつきあいが助けにならない例かもしれない。犬は適切なつきあいがあったのだが、環境−柵で囲まれた庭−が適切でなかったのだ。
(テンプル・グランディンら著「動物感覚 −アニマル・マインドを読み解く」 p.214-215より引用)
5年余りを経て出版された新しい書籍の方では、なぜ意図的な(としか思えない)改ざんがなされてしまったのでしょう?
私は、"引き綱条例"に疑問を投げかけることに対して、何らかの圧力がかかったんじゃないかと勘ぐっています。某テレビの犬番組でも、最近は不自然にロングリードが用いられている(複数の犬が絡み合い危険だと思えるようなシーンにおいても)のも同じ動きなのかもしれません。
日本においては、既にリードを外すことはタブーになってしまったのかと暗澹たる気持ちになってしまいました。
"タブー"は思考停止を引き起こして、改善を放棄することに他なりません。
日本国内においても同様の咬傷事件のデータがないかと探してみたのですが、けい留が一般的になる前の昭和初期の頃の数字は見当たりませんでした。
グランディン氏のアメリカのデータとは直接比較できませんが、環境省のこのページの"別添2 犬による咬傷事故件数"の情報をグラフ化してみたので掲載しておきます。
(調査データが安定した)1981年から 2009年までの日本全国の(人間に対する)犬による咬傷事故件数の推移をご覧ください。別の資料によるとこの期間に犬の登録数は 2倍強に増えているようですが、上のグラフにプロットされているのは、あくまでも事故の件数そのものです。
"けい留中"というのは原資料中では"犬舎等にけい留中"と記載されているもの、"運動中"というのは同様に"けい留して運動中"と分類されているものです。したがって、"運動中"というのがオンリードでの散歩等を指し、オフリードに関しては"放し飼い"の中に含まれていると考えられるでしょう。
咬傷事故全体が激減しているにもかかわらず、"運動中"すなわちオンリードでの散歩等の事故だけは横ばい状態にあるのは目を引きます。オンリード時の事故が占める割合は、実に 2.5倍にも増加しているんですよ。
これはいったい何を意味しているのでしょう?
"ノーリードは悪"、"リードは命綱"というのが常識化して、本来の犬の幸せや、イギリスやドイツに見られるような人と犬の共存社会からどんどん乖離していく日本。こんなことで、どうやったら同行避難がうまくいくというのでしょう?
こうやってこの本を書いているのは、動物がストレスの少ない生活をして、痛みのないすみやかな死を迎えるだけでなく、それ以上のものを得ることができればと願うからだ。動物にも、なにかやりがいのあることをして楽しい生涯をおくってもらいたい。私たちにはその責任があるのだ。
(テンプル・グランディンら著「動物感覚 −アニマル・マインドを読み解く」 p.403より引用)
死を動物に起こりうる最悪の事態と考える人がいる。放し飼いの犬は、車に轢かれて死ぬこともあるが、他者とふれあう生活は充実しているだろう。家に閉じこめられている犬は、車に轢き殺されることはあまりないだろうが、飼い主がたっぷり遊んでやったり、相手になったりしてやらなければ、生活の質は放し飼いの犬より低いかもしれない。動物にとっていちばん大切なものは、生活の質だと私は考える。そのために必要なものは三つ、一に健康、二に痛みや好ましくない情動からの解放、三に「探索」と「遊び」を刺激する活動だ。
(テンプル・グランディンら著「動物が幸せを感じるとき −新しい動物行動学でわかるアニマル・マインド」 p.353-354より引用)
"動物が幸せを感じるとき"をあらためて読み直した際に、何度も引き合いに出されている書籍も一緒に読むことにしました。"マールのドア"。
"犬と人の関係"について私が理想とすることがたくさん詰まっている本でした。"雑記帳"カテゴリとして書きなぐってきた、"犬の知性"、"犬と人の共進化"、"犬への想い"などにも触れられています。
内容を解説する趣味はないので、プロローグの部分だけを引用させていただくことにしますが、ぜひ、一人でも多くの方に読んで欲しいと願っている素晴らしい本です。
この本は、ぼくとともに暮らした、マールという名前の一頭の犬の物語だ。そして、都市化が進む現代の社会で生きなければならない犬たちの物語でもあり、さらには、犬の生活を枠にはめるのではなく人間のほうが生活を少し変えれば、犬がどんなに幸福に暮らせるかを語る本でもある。
マールは幸運にも田舎で生涯を過ごした。文明と野生の世界との境界が今でもまだ曖昧な、ワイオミング州北西部で暮らしたのだ。彼は犬用ドアを出入りして、広大な大自然に遊び、自由を満喫した。とはいえ、ぼくがマールとの生活から学んだことの数々は、どんな場所でも実践できるはずだ。犬用ドアをつけるという物理的な対策の効用もたしかに大きかったけれど、マールがぼくに教えてくれたのは、むしろ心や感情の領域にそうしたドアを設けることの大切さであり、それこそが犬の可能性を育てるという真実だった。訓練ではなく、仲間としての結びつきの大切さ。理論ではなく、実践だった。
そして、なによりも重要なのは、日々のどんな場面でも犬のリードをゆるめようという心であり、犬をできるかぎり頻繁に完全に自由にして、鼻の向くままに走らせ、自力で学ばせることなのだ。
(テッド・ケラソテ著「マールのドア −大自然で暮らしたぼくと犬」 p.7より引用)
私が本当の"命綱"だと考えているものは、犬自身が自分で判断して行動できる能力と、飼い主(やその他の人間)との信頼関係です。
リードはそれを補佐する二次的なセーフティネットにすぎません。
2013年04月24日
マールのドア
posted by Tosh at 23:59| Comment(5)
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