外を見るとごく薄い月が山の端から上ってきています。月齢を調べると27.6。明日には糸のように細くなり、12/4以降にまた新たに姿を現すでしょう。

"満つれば欠くる"といった言葉があるように、昔の人は月が欠けていく姿に栄枯盛衰のマイナス側を感じたのでしょうか。しかしなぜ欠けていくのかをどう捉えていたのかは気になります。新月の前後には薄く光る月の横にぼんやりと丸い形が見えることを、現代人よりも"眼"が良かったかもしれない古代の人達が見逃したとは思えないのです。
もちろん月の公転や地球照のことは知らなかったはずですが、決して"つごもりには月が無くなる"と考えていたわけではないように思います。
"見えなくなるだけであって存在はしている"という認識は、仏教の影響もある昔の日本人には今よりもずっと自然に感じられたかもしれません。ひょっとしたら、空不異色とか空即是色を実感できたのかもしれないなんていう戯れ言をぼんやりと考えている間に空が明るくなってきました。
ちょうど一年前と同じように、7時頃には陽が昇り始めます。暖かい光に包まれる頃になって、私はこのブログのデザインを少しだけ変更しました。
陽の光に隠されて、月の姿はもう見えません。が、そこに在ることは確かです。明るい月夜とは逆に、我々自身(地球)が月を照らしているというのも素敵な事実。やはり、たいせつなものは目に見えないのかもしれませんね。

小学生の頃、私は夏休みの宿題をぎりぎりまで消化しない方の子どもでした。サボっていた自分が悪いくせに、その頃から変に完全主義の傾向があった私は、ぎりぎりになって慌てて仕上げた満足いかない作品を休み明けに提出するのが嫌でしょうがなかった記憶もあります。
歳をとってもそのダメな性格は直っていないようです。
"ナットの宿題"の中で、"大災害等が起こった際に、当たり前のように犬達と一緒に避難生活できる社会"を作りたいと思っていることを書きました。
が、この目標は漠然としていて、そのままでは自分が何を為すべきかということに直結していません。私はまたもや宿題を仕上げないままに時を過ごしてしまったようです。
実のところ、今日の時点でもまだ明確になっていないことだらけで、とても"提出"できる状態じゃないのですが、"行動"を後回しにしてきた私自身への自戒も込めて、今考えていることを書き記しておきたいと思います。
先の記事で、国が"災害時の同行避難"について旗を振ってくれたとしても、それが本当に問題なくできるためには、犬を取り巻く社会を変えておかなければならないと考えていることにも触れました。
1. 犬側の問題として、他犬や家族以外の人間と仲良くできること
2. 人側の問題として、犬が居ることに抵抗感のある人を減らすこと

1.に関連すると思われることで、以前からこんなふうな世の中にしたいと思ってきたことは、"(特に幼体の)生体展示販売を減らす"ということでした。
日本人にはどうも周りに流される方が多いようで、テレビのCMである犬種が取り上げられると、あっという間に流行したりする。しかし、いわゆるペットショップに仔犬がいなければ、"あ、あの犬だ!"といった衝動買いはかなり抑えることができると思います。また、自分のライフスタイルに合った犬を選ぶといった冷静な行動を促しやすくもなるでしょう。
もちろん、それと同時に、幼齢で親から引き離され、水槽のような見世物箱で刺激に晒し続けられ、社会化の機会を奪われることもなくなり、ひいては悪質なパピーミルを撲滅していくことにも繋がるはずです。
以前にも書いたことがあるかもしれませんが、ペットショップから迎えられた犬であっても、とても性格が良い子がいることは実際に経験して知っています。が、それ以上に、社会化不足&飼い主の意識の低さによって見ていてイヤになるような流行犬と飼い主が多いのも事実でしょう。
まじめなシリアスブリーダーさんは、それだけでは食っていけないのは日本に限ったことではないそうです。ましてや日本ではそうかもしれません。行き過ぎた純血種繁殖にも問題はありますが、ショーで勝つことだけを考えているのではない、トータルに犬種の将来を考えている犬舎が評価されるような世の中になることを目指したいものです。

2.に関連することで従来から考えてきたのは、"オフリードが許容される社会にしたい(戻したい)"ということでした。
おかしな繁殖をされたり、まともな愛情をかけずに"モノ"として幼い状態で流通させられたり... そういったことがなければ、ほとんどの犬は人間に危害を及ぼすような生き物ではないはずです。そういった好ましくない遺伝子が淘汰されてきたからこそ"犬"という種族ができたわけですし、その恩恵を蒙って"人"は世界を手に入れたのですから。
犬が危険な"獣"ではなく人類のパートナーであることを、一部の愛犬家は当然のように知っています。が、まともな犬と触れ合う機会が少なかった、あるいは間違った接し方をしてしまった方は"犬は怖い"と思い込み、さらに犬を遠ざけることで溝は深まるばかり...
これを解決するには長い時間がかかるのかもしれません。子供たちに犬との接し方を教えるといった地道な取り組みを重ねることは必須でしょう。が、大人になった時に"犬は隔離すべきもの"という常識がまかり通っていたら、その効果も疑わしいものがあります。私は大人にも(大人にこそ)犬が近くにいることを日常的に経験してもらうことが重要じゃないかと考えているのです。
念頭にあるのは、ロンドンの公園で見た犬と人との関係。
きちんと育てられた(と思われる)大人の犬は、こちらがシグナルを出さない限り他人に寄って行くことはしません。他人とすれ違うのと同じ感覚で犬が通り過ぎるのを何とも思わないのは、少し前までの人類の(多くの文化における)常識だったはずです。# 通り魔殺人やノックアウト・ゲームが取りざたされる現代においては、人間どうしの方がずっと危険なはずなのに...
もちろん、いきなりイギリスやドイツのような"市民権"を犬達と飼い主に与えてしまうととんでもない結果が待ち受けていることは火を見るよりも明らかでしょう。
まずは、きちんと育てられた、犬どうしでも人間に対しても問題のない犬だけを選んで、大きな公園等でリードを離せるような場を作るべきだと考えています。これは広大なドッグランを手に入れたいといったことを言っているわけではありません。犬と人とを分離する今の日本のドッグランとは、むしろ正反対の方向。つまり、犬がいても人間が普通に利用できる環境でなければ意味はないのです。これを私は勝手に"オフリード公園構想"と呼んでいます。
こういった実験的な場が作れて、きちんと育てられている犬は一緒にいても何ら問題がないということが常識化することが、"棲み分け"ではなく"共生"には必要不可欠だと思うのです。
これを実現するためには様々な課題を解決していかなければいけません。行政の協力(場所の確保や条例の一部変更、広報など)、リードを離せる犬の認定方法、万が一トラブルが起こった時の対処法の確立... 一朝一夕にできることではないことはわかっています。ですが、同じような想いを持つ方々と協力して、少しずつでも実現に近づけるべく行動したいと考えているのです。
"このような団体が同じ方向性で活動している"といった情報をお持ちの方は、ぜひご教示くださいね。

ありがとうって言えるまで どこかで見ててね
ありがとうって言ってるから どこかで見ててね
(DREAMS COME TRUE 「AND I LOVE YOU」より引用 CD"AND I LOVE YOU"収録)